真似はできないけれど [現場]
ここのところ耳だ肩だ首だと、いろいろガタの来ている姉ですが、弟は先週末ビューンと倉敷市真備町までボランティアに行ってきたらしい。福島から仙台まで車で行って、そこからpeachで関空へ。そこから倉敷VCまではけっこう時間もかかったようですが……
弟のメールによると、20分ごとに休憩をとって、14時には作業を終了するというのですが、それでも熱中症になりかけるような灼熱の世界だという……しかも、住宅1戸にボラ4人で、なかなか作業は思うようには進まないようです。
3.11から7年で、その後いろいろと災害対策・復旧活動のための技術は進んだのかもしれないけれども、やはりどうしても人力が必要な場所もあります。あの時私も企業ボランティアチームに入って5月頃に岩手で作業をしたけれど、完全防備とはいえ灼熱の暑さで死にそうな目に遭うことはなかったもんなあ。今回は、暑さが本当に敵なんだなあ。
私は今の状況では具体的に力を出して手伝うことはできないけれど……できることを考えたいと思います。
各地から駆け付けたボランティア
しかし、灼熱……
弟のメールによると、20分ごとに休憩をとって、14時には作業を終了するというのですが、それでも熱中症になりかけるような灼熱の世界だという……しかも、住宅1戸にボラ4人で、なかなか作業は思うようには進まないようです。
3.11から7年で、その後いろいろと災害対策・復旧活動のための技術は進んだのかもしれないけれども、やはりどうしても人力が必要な場所もあります。あの時私も企業ボランティアチームに入って5月頃に岩手で作業をしたけれど、完全防備とはいえ灼熱の暑さで死にそうな目に遭うことはなかったもんなあ。今回は、暑さが本当に敵なんだなあ。
私は今の状況では具体的に力を出して手伝うことはできないけれど……できることを考えたいと思います。
蟷螂拳 [現場]
昨日は弟と一緒に母を連れ出して、父の見舞いに行きました。車中では、「施設の人たちがいい人だ」とか「他の入所者の人とこんな話をした」とかきわめて機嫌がよく、見舞いのあと一緒に夕食をとるまではとてもいいペースだったのですが、施設に戻る途中道路が渋滞すると、そのうち「あたしをこんな町外れに捨てるのか」「こんな冷たい子供たちとは思わなかった」と言いだし、最後には「二度と来るな」でした。
うーん、実に惜しい! でも、これが認知症という病気なのかも知れません。怒ったこともおそらく翌日には忘れているんだろうなあ。帰ってから、弟と沖縄料理屋で泡盛(瑞泉)のボトルを一本空けました。まあ、残すのも何だからさあ。まだあんまり無用な刺激を与えずに、施設に馴染んでもらった方がいいのかなあ。
で、今日は、明日の職場復帰にそなえて少し早く帰って来ました。すると、前にもお会いした方(?)が、まるで同じ塀の上に!
かなりの使い手のようだったので、早々に退散いたしました。
帰ると、にゃんずはみな元気にしていました。さあて、九州場所でも見るか!!
福ちゃん、まだご飯の時間じゃないよ!!
観葉植物もみな元気でした。それにしても、今日は関東は暖かいですね。
宮城県美術館で「フェルメールからのラブレター」展を母と見に行ったときに、一緒に東北復興応援展のようなのをやっていて、そこで買いました(「フェルメール……」展、見た途端母は忘れてしまうのが、辛いところです)。仙台・常禅寺通りの光のページェントがモチーフのようです。これまであまり見ることもなかったけど、今年は見られるかな。
うーん、実に惜しい! でも、これが認知症という病気なのかも知れません。怒ったこともおそらく翌日には忘れているんだろうなあ。帰ってから、弟と沖縄料理屋で泡盛(瑞泉)のボトルを一本空けました。まあ、残すのも何だからさあ。まだあんまり無用な刺激を与えずに、施設に馴染んでもらった方がいいのかなあ。
で、今日は、明日の職場復帰にそなえて少し早く帰って来ました。すると、前にもお会いした方(?)が、まるで同じ塀の上に!
その構え、まさか!!
かなりの使い手のようだったので、早々に退散いたしました。
帰ると、にゃんずはみな元気にしていました。さあて、九州場所でも見るか!!
福ちゃん、まだご飯の時間じゃないよ!!
おねえさんたら、あたしばっかり食いしん坊みたいに言うのよ(福)
おねえさんが台所に行く度にのぞき込むからでしょう(紋)
いいじゃん、べつに(福)
観葉植物もみな元気でした。それにしても、今日は関東は暖かいですね。
知らないうちに花が咲いていたカラスミセバヤ
土曜日の低温のせいか? エリカ様がちょっと紅くなりました
おまけ
冬らしく、新しい手ぬぐいを額装で飾りました
宮城県美術館で「フェルメールからのラブレター」展を母と見に行ったときに、一緒に東北復興応援展のようなのをやっていて、そこで買いました(「フェルメール……」展、見た途端母は忘れてしまうのが、辛いところです)。仙台・常禅寺通りの光のページェントがモチーフのようです。これまであまり見ることもなかったけど、今年は見られるかな。
見学 [現場]
おかえり、おねえさん(コ)
暑かったねえ、今日も。結局雨降らないし
父がどの程度回復した形で退院或いは転院できるかわからないので、結局は単なる見学・相談ができるにとどまるのですが、とにかく見学出来ますといわれた施設に行ってみました。うちからは電車で1時間程度なので、そう遠いところではありません。
今年できたところなので施設はとてもきれい
しかし、ベランダには出られません。安全を考えて戸が開かないようになっている
ここはモデルルーム。ナースコールはベッドサイドとトイレ
各階の共有スペース
各階のヘルパーステーション
施設長の方にお話を伺いながら見学していたら、入所者のおばあちゃんが、「うちの部屋もきれいだから見ていって」と見せてくださいました。6月末に旦那様を亡くされたばかりで、箪笥の上に簡単な仏壇をしつらえておられました。入所者の方の要介護の程度は様々で、父の医療行為(痰の吸引)の程度によって、入所が可能かどうかが決まります。費用的にはあまり高いところではなく、うちからの交通の便も悪くないので、このくらいのところに夫婦揃って入居できれば安心かなあ、と思ったり……。
ついでなので、その後長期療養型の病院も訪問させていただきました。こちらも非常に設備が整って、相談員の方も非常にわかりやすくいろいろ相談に乗ってくださいました。しかし、実際に病棟を見学してみると、やはり終末期まで診てくださる病院ということで、本当に「寝たきり」という感じの方が多く、なんとかこちらに入らないですむくらいに回復してくれ! という思いが強くなりました。倒れて1週間なので、まだ何とも言えませんが。
おまけ
はみ出し親子
汗もかかなかったけれど [現場]
アースデイ東京タワー・ボランティアセンター主催の0泊2日週末被災地ボランティアに参加してきました。行き先は宮城県石巻です。
バスは今回参加の20人を載せて、夜22:00に東京タワーを出発。参加費用は11,000円、その場で支払いです。途中トイレ休憩を3回ほど挟み、翌30日(土)早朝5時前には活動場所近くの大郷町に到着。コンビニでご飯を買って、朝食をとります。
今回の作業は生徒の72名の生徒が亡くなり、いまだ6名が行方不明という凄惨なことになった大川小学校の周囲の遺留品の整理・洗浄です。まずは大川小学校の現場に、お花とお線香を捧げに行きます。
カヌー部隊はエンジンなしで動けるという利点を生かし、エンジン船で行ったら水中の網や瓦礫がスクリューに絡まってしまう場所に漕いでいって、ブイや網を拾い集めてくる役割を担っているのだそうです。全国からカヌーイストが集まって、ここに雑魚寝しつつ作業をしているらしい。みんな、強者です。
大川小学校はこの場所から車で20分程度のところでしたが、元々は学校と小さな集落が川沿いにあった場所が、今は廃墟となった小学校の他、ほとんど何もありませんでした。学校の廃墟の周りでは、数台の重機が木材を砕いたりして忙しく動き回っていました。校舎を見おろす丘になったところに第一の祭壇があり、そこには元の学校とそれに寄り添うように取り囲む釜谷の集落の写真が飾られていました。
どろんこの道を降りていくと、校舎近くに第二の祭壇があり、こちらに献花し、お線香を上げてきました。二階建ての小さな校舎は、在りし日はきっと子供たちの元気な声で溢れかえっていたのでしょうが、今はまるで戦争のあとのように無惨な姿をさらしているばかりです。とてもシャッターは押せませんでした。
祭壇近くには掲示板が置かれ、自衛隊員が必死に捜索する姿を撮影した写真が何枚も貼られていました。小さな遺体を運ぶ隊員たちの姿……これから整理・洗浄するものの多くは、おそらく彼らが拾い集めてきたものでしょう。
現場を去るときになって、まだ見つからない子供たちのためでしょうか、入れ違いに中国管区機動隊の車が4~5台入ってきました。
その後、遺留品の置かれた福地体育館へ。「7割が遺品だと思われます。効率はこの際度外視して、一つ一つ真心込めてきれいにしてください」と説明があり、作業にかかります。
雨で涼しくて、しかも力作業ではないので、汗一つかくわけではありませんでしたが、精神的には重い作業でした。私は写真洗浄班でしたが、子供たちの学習ドリルの汚れを落とした人もいて、「算数の良くできる子だけど、漢字のドリルはもうちょっと頑張れ、と思いながらきれいにした。この子はもういないかもしれないけれど、このドリルを取りに来た遺族の人も、やっぱりそういう気持ちでこれを見るのかなあ、と思った」と感想を述べられ、子供が亡くなるということのやるせなさが胸に迫りました。
今回は、会社単位で数人で参加した人、ご夫婦で参加した人、父子で参加した人、アメリカ在住でビザ更新の一時帰国のチャンスに参加した人、と様々なメンバーの20人でしたが、けっこう二度、三度とボラバスに乗っている人もいるようです。頑張って宣伝しても、いまだにあまり影響力を持たない自分がふがいない……
14時半頃に作業を終え、現地を出発です。途中福島・栃木辺りで豪雨にあったり、事故渋滞にはまったりしましたが、おおむね順調に来て、21時過ぎには東京タワーに帰ってきました。バスの中でがんがん寝たので、あまり疲れはありません。涼しくて身体が楽なこともあるのかな? とにかく、どこで何をやるにせよ、次にできることをまた探そうと思います。
29日(金)の夜、仕事を終えて雨に滲む東京タワーの麓へ
バスは今回参加の20人を載せて、夜22:00に東京タワーを出発。参加費用は11,000円、その場で支払いです。途中トイレ休憩を3回ほど挟み、翌30日(土)早朝5時前には活動場所近くの大郷町に到着。コンビニでご飯を買って、朝食をとります。
出荷制限がかかっているのは、きつい
乗ったバスは、てんぷら油の廃油を精製したBDFが燃料
今回の作業は生徒の72名の生徒が亡くなり、いまだ6名が行方不明という凄惨なことになった大川小学校の周囲の遺留品の整理・洗浄です。まずは大川小学校の現場に、お花とお線香を捧げに行きます。
途中の石巻市内の様子
田代島を訪ねた際に寄った石ノ森萬画館。現在閉鎖中
瓦礫がまだうずたかく積まれているのは、岩手と同様
案内の方と合流した公民館のようなところ。カヌー部隊が雑魚寝している
カヌー部隊はエンジンなしで動けるという利点を生かし、エンジン船で行ったら水中の網や瓦礫がスクリューに絡まってしまう場所に漕いでいって、ブイや網を拾い集めてくる役割を担っているのだそうです。全国からカヌーイストが集まって、ここに雑魚寝しつつ作業をしているらしい。みんな、強者です。
大川小学校はこの場所から車で20分程度のところでしたが、元々は学校と小さな集落が川沿いにあった場所が、今は廃墟となった小学校の他、ほとんど何もありませんでした。学校の廃墟の周りでは、数台の重機が木材を砕いたりして忙しく動き回っていました。校舎を見おろす丘になったところに第一の祭壇があり、そこには元の学校とそれに寄り添うように取り囲む釜谷の集落の写真が飾られていました。
どろんこの道を降りていくと、校舎近くに第二の祭壇があり、こちらに献花し、お線香を上げてきました。二階建ての小さな校舎は、在りし日はきっと子供たちの元気な声で溢れかえっていたのでしょうが、今はまるで戦争のあとのように無惨な姿をさらしているばかりです。とてもシャッターは押せませんでした。
祭壇近くには掲示板が置かれ、自衛隊員が必死に捜索する姿を撮影した写真が何枚も貼られていました。小さな遺体を運ぶ隊員たちの姿……これから整理・洗浄するものの多くは、おそらく彼らが拾い集めてきたものでしょう。
現場を去るときになって、まだ見つからない子供たちのためでしょうか、入れ違いに中国管区機動隊の車が4~5台入ってきました。
大川小に行く途中の風景。むちゃくちゃです
その後、遺留品の置かれた福地体育館へ。「7割が遺品だと思われます。効率はこの際度外視して、一つ一つ真心込めてきれいにしてください」と説明があり、作業にかかります。
ここは、作業場と展示室と両方を兼ねています
真ん中の機械は写真の複写に使うもの
書道用具、ピアニカにリコーダー、トロフィー、そして位牌……
最近余震が多いので、危険と判断したら裏山に逃げるようにと指示あり
記念撮影
雨で涼しくて、しかも力作業ではないので、汗一つかくわけではありませんでしたが、精神的には重い作業でした。私は写真洗浄班でしたが、子供たちの学習ドリルの汚れを落とした人もいて、「算数の良くできる子だけど、漢字のドリルはもうちょっと頑張れ、と思いながらきれいにした。この子はもういないかもしれないけれど、このドリルを取りに来た遺族の人も、やっぱりそういう気持ちでこれを見るのかなあ、と思った」と感想を述べられ、子供が亡くなるということのやるせなさが胸に迫りました。
今回は、会社単位で数人で参加した人、ご夫婦で参加した人、父子で参加した人、アメリカ在住でビザ更新の一時帰国のチャンスに参加した人、と様々なメンバーの20人でしたが、けっこう二度、三度とボラバスに乗っている人もいるようです。頑張って宣伝しても、いまだにあまり影響力を持たない自分がふがいない……
14時半頃に作業を終え、現地を出発です。途中福島・栃木辺りで豪雨にあったり、事故渋滞にはまったりしましたが、おおむね順調に来て、21時過ぎには東京タワーに帰ってきました。バスの中でがんがん寝たので、あまり疲れはありません。涼しくて身体が楽なこともあるのかな? とにかく、どこで何をやるにせよ、次にできることをまた探そうと思います。
ボランティア報告(その3) [現場]
3日目(6/4)は、二手に分かれて陸前高田・釜石に向かいました。私は、釜石チームです。
今日の仕事は、釜石市役所の倉庫で水をかぶってカビが生えた書類を運び出し、乾燥させるお手伝いです。依頼者は国文学研究機構の先生で、我々の他に加わっている人たちは、みな国立国会図書館の方だったり、大学の関係者だったり、山形から助っ人に駆けつけた文化財保護関係の財団の方だったりと、アカデミックな雰囲気です。
何しろ個人情報満載の書類なので、最初に守秘のための誓約書にサインさせられました。
まあ、こういう仕事は企業人ボランティアにはぴったりの仕事かもしれません。みんな一応会社の代紋しょって来ているので、あんまり下手なことはできませんから……
写真撮影についても、活動の様子はいいけれど、書類の写真は撮っちゃダメ、等の条件がつきます。私たちは書類を運ぶだけで、乾燥作業は専門家にお任せですし。まあ、どうせこの時点で私のコンデジは宿泊先で乾燥中ですが。
というわけで、作業中は写真を撮っていないのですが、役所の近くに駐めたバスの中でお弁当を食べたときに、パゴ様で少しだけ町の様子を撮影しました。
作業自体は、湿って重いファイルを束にしてコンテナに入れて、それを近くの廃校になった小学校にリヤカーで運び、エレベータなしの5階まで運び上げるという、地味ながらハードなもの。役所から小学校までは、距離的には50メートル程度かと思いますが、途中道路を横断し、しかも微妙に上り坂……そして、最後に階段が堪えます。長靴やゴーグル、ヘルメットの必要な作業ではありませんでしたが、疲れてだんだん無口になっていく私たち……。
でも、3日かかると見積もっていた分の2日間は今日一日でできた! と喜んでもらえました。とにかく戦力になって良かった!!
この間陸前高田チームは、途方もなく大きな田んぼに他のグループと一緒に50人体制でかかって瓦礫片付け。ヘドロの悪臭とぬかるんだ足元に悪戦苦闘していたそうです。しかも、お弁当のお箸を忘れるという大ミス! あとで写真を見せてもらったら、綿棒で餃子を挟んでいる人、ペンチでご飯を食べている人と、あまりと言えばあんまりな光景……。VC側の手配した車がエンストした事件もあったみたいだし、まさに踏んだり蹴ったり!
翌日(6/5)は朝食を食べて、もう解散です。すっかりチームワークの良くなった12人、東京での再会を約して盛岡駅でお別れしました。お名残惜しい!
今回は思い切って参加してみて、本当に良かったです。私などは2ヶ月前に手術をしたとはいえ、身体も大きいし平均よりは筋力もあるつもりでいますが、一緒に頑張った女性の中には、小柄で細くて、同僚に「君には無理じゃない?」なんて言われた人もいました。でも、現地に行ってみればやっぱりいろいろお手伝いできることはあって、女性ならではの細やかさが喜ばれる場合もあります。1日目の、陶芸作業所で割れていない陶器をより分けて棚に載せるのなんて、まさにうってつけの仕事ではないでしょうか(私は、がさつなのであえて加わらず、瓦礫片付けをやっていましたが)。
確かに、全員が身体を動かしてお手伝いをする必要はないし、またそれは現実的でもありません。ただ、もしできるなら、見るだけでも、観光に行くだけでも、この災害を親身に感じて支援をすることになるのではないかと思いました。
NPOの人たちは、今後支援の熱が冷めてボランティアがどんどん減っていくのを心配しています。そこで、再び清流に鮭に帰ってきてもらうための川の清掃など、スポット的なボランティアイベントを打っていくこともいろいろ考えているようです。そういう企画に上手に乗って、現地の様子を見てみる、そしてついでに支援をしてみるというのもいいんじゃないかなあ、と思いました。
最後に、盛岡駅前で新幹線を待つ間お散歩していたら、こんなイベントをやっていました。
素朴ですが、曲り屋を造って馬と一緒に暮らしていた岩手の人たちの馬とのつながりがしのばれる、いいお祭りです。今年は震災のため開催を危ぶまれていたとのことですが、6月11日に開催することになったようです。知っているけど本番は見たことがない。いっぺん見に来たいなあ。その頃、自分が片付けた田んぼでお米ができていたらうれしいだろうなあ
長々と続けてしまいましたが、ボランティア報告はこれで終了です!
今日の仕事は、釜石市役所の倉庫で水をかぶってカビが生えた書類を運び出し、乾燥させるお手伝いです。依頼者は国文学研究機構の先生で、我々の他に加わっている人たちは、みな国立国会図書館の方だったり、大学の関係者だったり、山形から助っ人に駆けつけた文化財保護関係の財団の方だったりと、アカデミックな雰囲気です。
何しろ個人情報満載の書類なので、最初に守秘のための誓約書にサインさせられました。
まあ、こういう仕事は企業人ボランティアにはぴったりの仕事かもしれません。みんな一応会社の代紋しょって来ているので、あんまり下手なことはできませんから……
写真撮影についても、活動の様子はいいけれど、書類の写真は撮っちゃダメ、等の条件がつきます。私たちは書類を運ぶだけで、乾燥作業は専門家にお任せですし。まあ、どうせこの時点で私のコンデジは宿泊先で乾燥中ですが。
すでに水をかぶった状態で撮影した釜石VC。晴れているのに湿っぽい写真
というわけで、作業中は写真を撮っていないのですが、役所の近くに駐めたバスの中でお弁当を食べたときに、パゴ様で少しだけ町の様子を撮影しました。
もう、こうなると重機を入れざるを得ません
津波の名残。海の魚が干涸らびていました
作業自体は、湿って重いファイルを束にしてコンテナに入れて、それを近くの廃校になった小学校にリヤカーで運び、エレベータなしの5階まで運び上げるという、地味ながらハードなもの。役所から小学校までは、距離的には50メートル程度かと思いますが、途中道路を横断し、しかも微妙に上り坂……そして、最後に階段が堪えます。長靴やゴーグル、ヘルメットの必要な作業ではありませんでしたが、疲れてだんだん無口になっていく私たち……。
でも、3日かかると見積もっていた分の2日間は今日一日でできた! と喜んでもらえました。とにかく戦力になって良かった!!
この間陸前高田チームは、途方もなく大きな田んぼに他のグループと一緒に50人体制でかかって瓦礫片付け。ヘドロの悪臭とぬかるんだ足元に悪戦苦闘していたそうです。しかも、お弁当のお箸を忘れるという大ミス! あとで写真を見せてもらったら、綿棒で餃子を挟んでいる人、ペンチでご飯を食べている人と、あまりと言えばあんまりな光景……。VC側の手配した車がエンストした事件もあったみたいだし、まさに踏んだり蹴ったり!
翌日(6/5)は朝食を食べて、もう解散です。すっかりチームワークの良くなった12人、東京での再会を約して盛岡駅でお別れしました。お名残惜しい!
今回は思い切って参加してみて、本当に良かったです。私などは2ヶ月前に手術をしたとはいえ、身体も大きいし平均よりは筋力もあるつもりでいますが、一緒に頑張った女性の中には、小柄で細くて、同僚に「君には無理じゃない?」なんて言われた人もいました。でも、現地に行ってみればやっぱりいろいろお手伝いできることはあって、女性ならではの細やかさが喜ばれる場合もあります。1日目の、陶芸作業所で割れていない陶器をより分けて棚に載せるのなんて、まさにうってつけの仕事ではないでしょうか(私は、がさつなのであえて加わらず、瓦礫片付けをやっていましたが)。
確かに、全員が身体を動かしてお手伝いをする必要はないし、またそれは現実的でもありません。ただ、もしできるなら、見るだけでも、観光に行くだけでも、この災害を親身に感じて支援をすることになるのではないかと思いました。
NPOの人たちは、今後支援の熱が冷めてボランティアがどんどん減っていくのを心配しています。そこで、再び清流に鮭に帰ってきてもらうための川の清掃など、スポット的なボランティアイベントを打っていくこともいろいろ考えているようです。そういう企画に上手に乗って、現地の様子を見てみる、そしてついでに支援をしてみるというのもいいんじゃないかなあ、と思いました。
最後に、盛岡駅前で新幹線を待つ間お散歩していたら、こんなイベントをやっていました。
チャグチャグ馬コの予行演習!
素朴ですが、曲り屋を造って馬と一緒に暮らしていた岩手の人たちの馬とのつながりがしのばれる、いいお祭りです。今年は震災のため開催を危ぶまれていたとのことですが、6月11日に開催することになったようです。知っているけど本番は見たことがない。いっぺん見に来たいなあ。その頃、自分が片付けた田んぼでお米ができていたらうれしいだろうなあ
長々と続けてしまいましたが、ボランティア報告はこれで終了です!
ボランティア報告(その2) [現場]
作業2日目(6/3)は、釜石に向かいました。
釜石は、新日鐵釜石等でお馴染みですが、大きな観音像があり、昔親戚が住んでいました。その親戚が来るときに買ってくる「観音パイ」というお菓子が美味しくて、楽しみだったものです。
盛岡から釜石までも2時間以上かかります。
釜石は役所がかなり破壊されてしまって、行政機能が弱っているとのこと。VC近くの広場のようなところに、自衛隊のテントや車両、そして特設のお風呂がありました。
この日は午前中は、アート引っ越しセンターさんに協力して(?)、避難所となっている小学校の体育館から会議机を運び出し、別の場所に移すというへんてこな作業でした。もっとも、アート引越センターさんもボランティアでやられているのでしょうが。
運送屋さんみたいなことをやっているわけで、会議机を30ばかり、廃校となった橋野小学校というところに運び込む作業は、ものの30分ほどで終了です。あまりに拍子抜けだったので、そこにいった釜石市のボランティアの方お二人に他にやることはありませんか、とお尋ねしたら、それなら橋野小学校の体育館の床にブルーシートを敷く作業を手伝ってください、とのこと。
大きなビニールシートを床に敷き詰め、ガムテープで留めていきます。2人でやったらきっと2時間くらいは掛かる作業ですが、みんなでやったので、あっという間にキレイに敷けました。この体育館は避難所にするのではなく(かなり古い建物でした)、被災地から見つかった思い出の品の展示場にするのだそうです。
展示場は、近くの廃墟となった大型ドラッグストアにあるというので見に行ってみると……
見た目はがれきでありゴミであっても、元の住民にとって何一つゴミはない、と最初にNPOの方々に言われました。だから危険防止の観点からだけではなく、ものを投げて積み上げるようなことはするな、と。
午後は、コンデジ不調(水かぶっちゃいました)のため写真はありませんが、おばあさんのおうちの畑の片付けものです。おばあさんの家はさほど海に近いわけではないのですが、鮭が遡上してくるようなキレイな川が近くにあり、そこに下流から流れてきた家が水をせき止めてしまい、堤防を越えてあふれ出した水が畑に流れ込んだとのこと。ここにも昨日同様、様々なものが流れ着いていて、つい最近にもご遺体が発見されたりしているそうです。
作業開始前にみんなでストレッチをしていたら、おばあさんが「キャー!」と畑で悲鳴を上げました。何ごとかと尋ねると、「蛇が出た」とのこと。「殺しちゃって!」というご依頼はさすがに受けられず……。
蛇だけではなく、熊も鹿も出るとのことで、畑の鹿よけに張っていた網が水で倒されてしまい、「できれば張り直してほしい」ということだったのですが、さすがに太い杭や大きな網は素人の手には負えませんでした。
「畑にカボチャを植えて、近くに鹿の嫌いなコスモスやマリーゴールドを植えたんだけど、ある晩鹿が親子で列になってやって来て、首をうんと伸ばしてカボチャを食べてしまった」(おばあさん談)とのこと。
また、おばあさんによると、畑に衣類や布団が落ちていると、「そこに人(ご遺体)があるのではないかと思って、怖い」とのこと。まだ行方不明者がたくさんいる状況では、無理からぬことです。
おうちには柴犬系のかわいい犬が一匹飼われていて、郵便屋さんや宅急便やさんには吠えるけど、介護の人には吠えないとのこと。作業が終わって、我々が犬に会いに行ったときも、このお利口な子は吠えませんでした。
釜石は、新日鐵釜石等でお馴染みですが、大きな観音像があり、昔親戚が住んでいました。その親戚が来るときに買ってくる「観音パイ」というお菓子が美味しくて、楽しみだったものです。
盛岡から釜石までも2時間以上かかります。
自衛隊特設「すずらんの湯」。真ん中の白いテントに青いのれんが出ています
釜石は役所がかなり破壊されてしまって、行政機能が弱っているとのこと。VC近くの広場のようなところに、自衛隊のテントや車両、そして特設のお風呂がありました。
町中の様子。かろうじて道は通れます
この日は午前中は、アート引っ越しセンターさんに協力して(?)、避難所となっている小学校の体育館から会議机を運び出し、別の場所に移すというへんてこな作業でした。もっとも、アート引越センターさんもボランティアでやられているのでしょうが。
運送屋さんみたいなことをやっているわけで、会議机を30ばかり、廃校となった橋野小学校というところに運び込む作業は、ものの30分ほどで終了です。あまりに拍子抜けだったので、そこにいった釜石市のボランティアの方お二人に他にやることはありませんか、とお尋ねしたら、それなら橋野小学校の体育館の床にブルーシートを敷く作業を手伝ってください、とのこと。
大きなビニールシートを床に敷き詰め、ガムテープで留めていきます。2人でやったらきっと2時間くらいは掛かる作業ですが、みんなでやったので、あっという間にキレイに敷けました。この体育館は避難所にするのではなく(かなり古い建物でした)、被災地から見つかった思い出の品の展示場にするのだそうです。
展示場は、近くの廃墟となった大型ドラッグストアにあるというので見に行ってみると……
立ち入り禁止の黄色テープの貼られた建物の中に
ランドセルやアルバムなどが無造作に置かれていました
見た目はがれきでありゴミであっても、元の住民にとって何一つゴミはない、と最初にNPOの方々に言われました。だから危険防止の観点からだけではなく、ものを投げて積み上げるようなことはするな、と。
午後は、コンデジ不調(水かぶっちゃいました)のため写真はありませんが、おばあさんのおうちの畑の片付けものです。おばあさんの家はさほど海に近いわけではないのですが、鮭が遡上してくるようなキレイな川が近くにあり、そこに下流から流れてきた家が水をせき止めてしまい、堤防を越えてあふれ出した水が畑に流れ込んだとのこと。ここにも昨日同様、様々なものが流れ着いていて、つい最近にもご遺体が発見されたりしているそうです。
作業開始前にみんなでストレッチをしていたら、おばあさんが「キャー!」と畑で悲鳴を上げました。何ごとかと尋ねると、「蛇が出た」とのこと。「殺しちゃって!」というご依頼はさすがに受けられず……。
蛇だけではなく、熊も鹿も出るとのことで、畑の鹿よけに張っていた網が水で倒されてしまい、「できれば張り直してほしい」ということだったのですが、さすがに太い杭や大きな網は素人の手には負えませんでした。
「畑にカボチャを植えて、近くに鹿の嫌いなコスモスやマリーゴールドを植えたんだけど、ある晩鹿が親子で列になってやって来て、首をうんと伸ばしてカボチャを食べてしまった」(おばあさん談)とのこと。
また、おばあさんによると、畑に衣類や布団が落ちていると、「そこに人(ご遺体)があるのではないかと思って、怖い」とのこと。まだ行方不明者がたくさんいる状況では、無理からぬことです。
おうちには柴犬系のかわいい犬が一匹飼われていて、郵便屋さんや宅急便やさんには吠えるけど、介護の人には吠えないとのこと。作業が終わって、我々が犬に会いに行ったときも、このお利口な子は吠えませんでした。
(つづく)
ふーん、犬にしちゃ賢いわね(ポ)
ボランティア報告(その1) [現場]
とある企業人によるボランティアプログラムに参加して、6/1-5、岩手に行って活動をして参りました。
まさに百聞は一見にしかずという言葉がぴったりで、テレビの報道で見てきた被災地の様々な状況を自分の目で見て確かめることによって、改めて悲惨さもわかり、被災直後から比べ徐々に復興してきている様子もよくわかりました。拙い文章と写真ではありますが、見たこと・感じたことをご紹介します。
初日(6/1)はそれぞれで盛岡にやってきて宿泊先で合流ということで、ちょっと早めに行って、盛岡市内の様子を見ました。こちらは、ほとんど被害なし。
今回、私たちのグループは各企業から集まった12人。うち4人が女性、年齢も20代から定年間際と様々。業種も、メーカー、証券、保険、自動車、コンピュータといろいろですが、動機は一つ-「役に立ちたい」ということだけです。
翌日(6/2)は、朝7時に出発し、陸前高田のボランティアセンター(VC)へ。宿泊先の盛岡からVCまではバスで2時間ほどもかかります。
各ボランティアグループは、まずこういう各地のVCに行って、ニーズとのマッチングを受けますが、これがけっこう時間がかかったりします。寄せられたニーズをVCの人がニーズ表にして、場所・作業内容・依頼者名・必要な道具等をまとめているのですが、これがけっこう実情と違う場合があって、時間・労力が無駄になる場合も往々にしてあります。
今回の我々の仕事は、ある集落の津波をかぶった田んぼの片付けです。朝のうち雨が降り、地面がぬかるんでいるので、釘などの踏み抜き防止の鉄のインソールを入れた長靴を履き、上下レインスーツ、マスクにゴーグルという完全防備。蒸し暑いなんてもんじゃありません。
大船渡線は、本来あったはずの手前の砂利が敷かれた土手の上を大きく外れ、ねじれてはるか後方の泥田に柵のようになって突き刺さっています。この地域の民生委員のような方に説明を受け、くれぐれも怪我をしないで下さいと注意をいただきます。
波は、線路のある土手を越えて流れ込んできています。全員泥まみれになりながらの作業で、今はニオイはあまりありませんが、流れ着いたものには、家そのものの破片(壁、梁、柱、トタン等)、畳、衣類、食器や調理用具から、ステレオセット、古いレコードなどに至るまで、本当に「生活」そのものがすべて含まれています。プラスチックのコンテナに入った猫用のカリカリと、猫砂の袋も流れ着いていました……
人間の生活を丸ごと呑み込む自然の脅威には、絶句するばかりです。
道路から見ると、かなり高いところにあるように思うのですが、この家にも水が来たとのこと。元はこちらにお住まいで今は避難所暮らしをされている老夫婦の方が、気を遣ってわざわざコーヒーを淹れてくださいました。旦那様の方がリタイヤされてから陶芸を始められたとのことで、「今は先生と呼ばれる」方で、お教室を2カ所ももっていらしたとのこと。陶芸の作業場をキレイに片付け、割れていない陶器を棚に並べたら、とても感謝されました。「依頼者の顔の見える作業」なので、モチベーションも上がります。
ところで、ニーズ表の作業内容は「片付け」ということで、必要な道具としては「ゴミ袋」くらいしか書かれていませんでしたが、実際には重い建材を運ぶためにバラしたり等の作業もあり、バールが必要になって、あとで借りたりしました。その辺り、やはり無駄が多い。
感謝していただいたのですが、みんなで頑張っても、作業はとても完了とは言えません。みな、現場に心を残しながら、後ろ髪を引かれる思いで作業時間終了とともに引き上げです。
以下は、帰路の風景。
こうして、一日目の作業が終了すると、宿泊先で食事・入浴のあと、作業の振り返りのミーティングを行いました。注意点・改善すべき点などを出し合い、明日につなげます。
ただ、明日はまた別な現場で、どんな作業になるかわからない……というのが、ボランティアの作業なので、それが活かせるところに当たるのかどうかは予測がつきません。
また、宿泊先からVCに行くのに2時間もかかってしまい、いかにも無駄に思えるのですが、被災地近くの宿は避難民が優先的に泊まっているとのことで、どうにもならない状況のようです。避難民の方とすればやはりあまり自宅から遠くに住みたくないでしょうし、また、遠く離れてしまうと現場の復興ができないので、致し方ないようですが……作業者からすると、うーん、なんとかならないのかなあ、と思ってしまいます。ニーズ表も実情と違う場合が多いなど、問題点は多い。こうした作業が、効率一本槍でできないことだというのは理解できるのですが。
昨日初めて出会った会社も年も性別も違う12人ですが、大きな重い浴槽をみんなで力を合わせて転がして運んだり、チームワークよく作業を進めます。そつなく仕事をこなせる企業人ボランティアというのは、ボランティアグループの中でも評価は高いらしい。期待にはなるべく応えたい、と、みんな明日もやる気十分です。
盛岡市内で見つけたみちのくプロレスのポスター
まさに百聞は一見にしかずという言葉がぴったりで、テレビの報道で見てきた被災地の様々な状況を自分の目で見て確かめることによって、改めて悲惨さもわかり、被災直後から比べ徐々に復興してきている様子もよくわかりました。拙い文章と写真ではありますが、見たこと・感じたことをご紹介します。
初日(6/1)はそれぞれで盛岡にやってきて宿泊先で合流ということで、ちょっと早めに行って、盛岡市内の様子を見ました。こちらは、ほとんど被害なし。
盛岡城公園近く
古い建物も問題なし
唯一見つけた被害らしきもの。宣教師館という古い洋館
今回、私たちのグループは各企業から集まった12人。うち4人が女性、年齢も20代から定年間際と様々。業種も、メーカー、証券、保険、自動車、コンピュータといろいろですが、動機は一つ-「役に立ちたい」ということだけです。
翌日(6/2)は、朝7時に出発し、陸前高田のボランティアセンター(VC)へ。宿泊先の盛岡からVCまではバスで2時間ほどもかかります。
途中で出会った応援の中国管区機動隊の車両
「希望の一本松」をかたどったワッペン(300円)を売ってます
「なじょにかすっぺ」=「なんとかしよう」
女子トイレの看板がかわいかった
各ボランティアグループは、まずこういう各地のVCに行って、ニーズとのマッチングを受けますが、これがけっこう時間がかかったりします。寄せられたニーズをVCの人がニーズ表にして、場所・作業内容・依頼者名・必要な道具等をまとめているのですが、これがけっこう実情と違う場合があって、時間・労力が無駄になる場合も往々にしてあります。
今回の我々の仕事は、ある集落の津波をかぶった田んぼの片付けです。朝のうち雨が降り、地面がぬかるんでいるので、釘などの踏み抜き防止の鉄のインソールを入れた長靴を履き、上下レインスーツ、マスクにゴーグルという完全防備。蒸し暑いなんてもんじゃありません。
現場に向かう途中の風景。じわっと涙が出てくる……
現場前の堤防。わかりづらいですが、海側に倒れています
美容院から流れてきたのか……
これが作業現場
大船渡線は、本来あったはずの手前の砂利が敷かれた土手の上を大きく外れ、ねじれてはるか後方の泥田に柵のようになって突き刺さっています。この地域の民生委員のような方に説明を受け、くれぐれも怪我をしないで下さいと注意をいただきます。
船も乗り上げています
元線路のあった場所から入り江を望む
波は、線路のある土手を越えて流れ込んできています。全員泥まみれになりながらの作業で、今はニオイはあまりありませんが、流れ着いたものには、家そのものの破片(壁、梁、柱、トタン等)、畳、衣類、食器や調理用具から、ステレオセット、古いレコードなどに至るまで、本当に「生活」そのものがすべて含まれています。プラスチックのコンテナに入った猫用のカリカリと、猫砂の袋も流れ着いていました……
人間の生活を丸ごと呑み込む自然の脅威には、絶句するばかりです。
こちらのおうちの片付けも手伝いました
道路から見ると、かなり高いところにあるように思うのですが、この家にも水が来たとのこと。元はこちらにお住まいで今は避難所暮らしをされている老夫婦の方が、気を遣ってわざわざコーヒーを淹れてくださいました。旦那様の方がリタイヤされてから陶芸を始められたとのことで、「今は先生と呼ばれる」方で、お教室を2カ所ももっていらしたとのこと。陶芸の作業場をキレイに片付け、割れていない陶器を棚に並べたら、とても感謝されました。「依頼者の顔の見える作業」なので、モチベーションも上がります。
ところで、ニーズ表の作業内容は「片付け」ということで、必要な道具としては「ゴミ袋」くらいしか書かれていませんでしたが、実際には重い建材を運ぶためにバラしたり等の作業もあり、バールが必要になって、あとで借りたりしました。その辺り、やはり無駄が多い。
感謝していただいたのですが、みんなで頑張っても、作業はとても完了とは言えません。みな、現場に心を残しながら、後ろ髪を引かれる思いで作業時間終了とともに引き上げです。
以下は、帰路の風景。
千昌夫の建てたホテルとのことですが……
希望の一本松。塩害でかなり危ういそうです
骨だけになったビニルハウス
こうして、一日目の作業が終了すると、宿泊先で食事・入浴のあと、作業の振り返りのミーティングを行いました。注意点・改善すべき点などを出し合い、明日につなげます。
ただ、明日はまた別な現場で、どんな作業になるかわからない……というのが、ボランティアの作業なので、それが活かせるところに当たるのかどうかは予測がつきません。
また、宿泊先からVCに行くのに2時間もかかってしまい、いかにも無駄に思えるのですが、被災地近くの宿は避難民が優先的に泊まっているとのことで、どうにもならない状況のようです。避難民の方とすればやはりあまり自宅から遠くに住みたくないでしょうし、また、遠く離れてしまうと現場の復興ができないので、致し方ないようですが……作業者からすると、うーん、なんとかならないのかなあ、と思ってしまいます。ニーズ表も実情と違う場合が多いなど、問題点は多い。こうした作業が、効率一本槍でできないことだというのは理解できるのですが。
昨日初めて出会った会社も年も性別も違う12人ですが、大きな重い浴槽をみんなで力を合わせて転がして運んだり、チームワークよく作業を進めます。そつなく仕事をこなせる企業人ボランティアというのは、ボランティアグループの中でも評価は高いらしい。期待にはなるべく応えたい、と、みんな明日もやる気十分です。
(つづく)
もう帰ってきたの?(福)
……はい……
仙台情報--弟による [現場]
弟から、物資を持って仙台に特攻したときの写真が届きましたので、ちょっとご紹介します。比較的被害は少なかった地域だと思っているのですが、それでもかなりの衝撃です。
この神社は、1978年の宮城県沖地震でも大きな被害を受け、そのときには石段がめちゃくちゃになって、1枚目の写真のように曲がりなりにも登れる状態にはなっていなかったように記憶しています。そのときの補修工事で石段がかなり強化されたように思えます。
今は仙台駅も相当な打撃を受けているので無理ですが、4月中には東北新幹線も復旧するとのこと。こと仙台に関する限り(うちの周辺だけじゃないと思いますが)、徐々にインフラも回復してきているようです。東北に遅い桜が咲き始める頃には、もっと状況がずっとよくなっていることを祈ります。
近くの神社
崩れ落ちた石灯籠
御神輿やらを入れる倉庫だったかな
この神社は、1978年の宮城県沖地震でも大きな被害を受け、そのときには石段がめちゃくちゃになって、1枚目の写真のように曲がりなりにも登れる状態にはなっていなかったように記憶しています。そのときの補修工事で石段がかなり強化されたように思えます。
倒れたブロック塀
商店前には長蛇の列(今は若干改善されたようですが)
コンビニも同様
おばの家の猫ちゃん。ごはんを運んできてくれた弟にお愛想よし
今は仙台駅も相当な打撃を受けているので無理ですが、4月中には東北新幹線も復旧するとのこと。こと仙台に関する限り(うちの周辺だけじゃないと思いますが)、徐々にインフラも回復してきているようです。東北に遅い桜が咲き始める頃には、もっと状況がずっとよくなっていることを祈ります。